昭和42年7月14日 夜の御理解



信心も、手習いも同じことが言える。初めから先生はおらん。一段一段、んー、進んでいくのじゃ。信心は、一段一段、その石段を上るように、えー、登っていかにゃいけん。しかも、やはり手習いと同じこと。やっぱり、一時でも手習いをやめたら、もう、手が落ちる。と言うて、初めから先生はおらん。ね。ですから、やはりそこんところの、段階を踏んで、私共の信心が、あー、胴どう回りの信心から、一段一段、こう高められていかなければいけん。いわゆる、和賀心神に向こうていくのを、信心というのじゃと、向かうのを信心というのじゃと仰るように。向こうていかなければいけん。全ての点において、それは、ああー、それを心に掛けさせて頂いておかんと、信心が上達しない。何十年信心しても、同じこと。それでは、おかげも頂かれまいと。いわゆる、神様にご迷惑のみ掛けんならんと。お喜びいただけること無しに終わってしまわなければならんというのでは、相すまん。段々、神様から教えて頂いた事を自分のものにして、それが自分の身になり、徳になって、自分がそれを体得させて頂いて始めて、これは、やっぱり思うんですよ。もう、そんなに易い事がどうして分からんのだろうかと、これは私が思うことがあるんです。ね。けども、それは、やはり、いー、信心の段階ですから、あー、やはりその人の気持ちになってお取次ぎさしてもらうんですけども、というて、なら、私の思うておることを、また、私より進んだ人が、ほんなら、見られたら、どうしてあんな事が分からんだろうかと、言うような事でございましょう。けれども、その、同じとこにおったんでは、相すまんのですね。そら、やはり、先生とも言われ、思われるようにならにゃいけんのです。初めから先生はおりません。ね。ですから信心を進めていきよりますとですね、神様は、必ずその、ああ、もう一段登らなきゃならんそという時には、んー、ちゃんとその、登らねばならない段取りを作って下さるのです。ね。
昨日、江口の共励会から、久富先生と大和さんが帰って見えられてから、初めて聞いた話なんですけれども、大和さんが、あー、共励部長ですか、は、そうですか。に、ああしてなられた。なかなか、もう、そりゃ本当に何とも言えん良い信心をされるんですよねえ。それがあの、それかと言うてその、こう、口数の少ない方ですから、共励会に行って、えー、自分の信心体験を話すという程にその、晴れがましいところは、あんまり見つからんというようなタイプの方なんですね。何とはなしにこう、泥ぐらいな感じの方ですから。ところが、もうその時に、まあ、言うなら、破格の、おー、推薦を得て、あんたがどうでも、共励部長をと、こうみんなに言われた時にですたい。もう、これではいけんとこう、本気で思われた。そして自分で昨日、それを、それも久富先生から言われてから話されるんですけど、もう、先生、とにかく、本気で思うと言う事だと、こう言われるのです。これからは、もう、どこの共励会にでもおかげを頂こう。そして、一言づつなりとも、体験を発表させて頂けるような体験を頂こうと。でなかったら、お話は出来るわけじゃないのですから、自分が頂かなければ分からんのです。もう、本気にそう私は思いましたと、こう言う。もう本当にあの、今日、江口の共励会なんかち言うのは、正式な、あー、いわば、支部的存在じゃないのですがね。あちらへ、十名あまりの人達がお寄りのようにしてよって、して、久富先生を迎えて信心話をすると言う程度のですけども、まあ、そちらも行かれた。ね。そして帰ってきてその、夕べの話の中にです、ね。先生私は、実はあの、今度の大命を頂きますまではです。実はもう、本当にあの、お届けこそしておりませんでしたけれども、畳屋さんですよ。二枚ぐらい畳を抱えると、もう、心臓が仰いでから、三枚目は、一つよこわなければならない、というようなことが在った。かと思うと今度は、ひょっと立つと目まいがしてから、くらくらっと倒れるようなことが何回かあった。こりゃ、こげなこっじゃ畳は出来んがと思うておるところへ、その、今度の、いわゆる、共励部長という大役を仰せつかったんでございますと。そして、そこで本気でその御用をさせて頂こうという気になり、もう、夕べは遅かったからと思うような事もあるけれども、ね。例えば、前の日は、福岡の、おー、支部の月次祭でございますから、あちらへ行かれた。そして、あちらを一時ごろですから、こちらにはもう、二時過ぎに帰られたんですよ。月次祭、共励会、そして夕べは江口ですから、もう、毎日毎日続いているわけです。夕べもまたここで私が、色々と信心話を致しましたから、また一時間ばっかり、ここでゆっくりしてお話を頂いて帰らなければならなかったんですけれど、ね。ところが先生もう、理屈じゃないですと。身体が疲れるとか、眠って無いとか、そう言う事じゃない、本気で神様に自分の心が向こうた時にです。ね。私の、そういう、畳二枚ぐらい抱えたら、心臓がどきどきしよったのがです。先生、最近では、十枚を続けて、二階に持ち上げてもですね、平気でございますとこう言う。先生もう、不思議な力を頂くもんじゃありますと言うて昨日、ここで、あー、それも久富先生からこう、言われ言われして、それだけのことを話されたんですけれど、本当に素晴らしいですね、その事だけでも、大和さん良いですねと。その事だけに血を付け肉をつけてお話をなさるならば、もう、それだけで皆がおかげを頂きますよと。今、貴方の仰るその気になると言う事ですよと言うて、まあ、話を聞いたり、聞かせた頂いたりしたことがございます。信心はやはり、しだごだした信心じゃ詰まりません。何十年信心されても駄目です。そら、しだごだのおかげは頂きますよ、何とはなしに。ね。神様は釈迦が身と同じと仰るから、こちらがしだごだなら、やっぱりおかげもしだごだなんです。やはり、しだごだでもおかげを受けておるからと言うて、ただ続いておるだけではです。これはつまらん。ね。本気になる。そこに、大和さんの信心がです。その、共励部長という、その事を境に一段と信心が進まれたという感じですねえ。そういう機会を与えて下さるんですよ、やはり。役を頂いても、もうほんと、たいこげな役をもう、承ってから、困ったこっじゃある。まあ、そるきん役を承ったけん、共励会でも行くとは行かじゃこてと、いうごたることで行っとった分ではですね。そんな私は、おかげにゃなってないと。最近では、初めの間は、家内が、とやこういうような風をしとりましたけれども、この前の、先月の福岡の共励会に初めて付いて来たいと言うから、連れて行きましたら、お父さん、福岡の共励会に行くとですね、今まで、椛目で分からなかった事が分からせて頂くような気がすると。だから、今度は、福岡の時だけは私も連れて行ってくださいち言うて、実は、昨日も家内が付いて来たんですよち言うて話しておられます。ね。言うなら、ぶら下がりそうにある家内が、帰って、お父さん、今日はどこの共励会ですよとこう、意気込んでくれるように段々なってきたと言う事も、私が、その気になったら、おかげを頂いた。それまでは、椛目にただ、様々な会合やら、お参りやら、月次祭やら、と言う程度にお参りしておるのでも、気がこう、こういうような雰囲気があったのですけども、御用いただかせていただくようになって、身体の上にもおかげを頂き、仕事の上には尚更のこと、家庭の上にも、こうしておかげを受けておると、こう言われるのです。ね。それに続いた話なんです。今日、丁度、十一時ごろだったでしょうか。久富勇さんがお参りして見えられました。ああ、皆さんご承知のように、行儀の良い方ですけれども、そこん、お初穂のところで、立て膝どんしてから、こげんしてお初穂書きよりなさいますもん。そらもう、何時もに似合わん、まあ、そのう、行儀の悪いことしなさるなあと、私は思って見よったんです、ずっと。そしたら、こう、ちんからちんからしてから見えますもん。はあ、どうかされたつばいのと思うて、それからここで私、お届けさせて頂いてから、どうしたふうですか、ここじゃきちっと座ってありますから、どうしたっですかち。そりがもう、おかげ落としましたちいわっしゃる。昨日、私が、月次祭の帰りに、んー、いや、十一日ですね、えーっえ、昨日、昨日は十三日ですから、十二日は何かあったんですかね。んん、あの、とにかく、大和さんと、こっから一緒に帰るときですね、大和さん、明日の晩な、江口ですのち。江口の共励会ですばいち。はあ、私は、江口の共励会は塗板に書いてないけん、忘れてしもとった。なら、おかげいただかじゃこてち言うてから、大和さんは言われて、まあ、忘れとったけれども、言われておかげを頂いたわけなんですけども。ところがその、勇さん、あーたもおかげ頂くじゃろもんて言うて、言うたところが、もう毎晩のこつで疲れとるきんで、明日御無礼しゅち、こう言われた。そして、勇さんが言われることですね。私は、それを言うた境にこげん足が悪うなったち言うた。足と手が動かんもん。今日は家内が一人で胡瓜ちぎりいっとりますから、運ぶとだけぐらいは自動車で運んでやらにゃいけまっせんから、あの、けども、とにかくその、胡瓜契りにすら行かれないという。しかし私は、そこに、勇さんの信心の素晴らしさと、または、神様の期待を感じますですねえ。明日は御無礼する、ほんなら、もう、そ元きつかならば、いっちょ、よこて良かごたるふうに、足が動かんごつしてやろち神様が言いなさったような感じがするじゃないですか。ね。そうも、はっきりと頂けれると言う事が、実は有難いのです。もう、本当に、神様は厳しいことだと言う事を、今日、勇さん言うておられます。ね。一段一段進んでいく、信心の稽古させて頂いておったら、もう一段進んでも良かろうというところには、神様は必ず、そこに、石段を造っておって下さるのです。やはり、ちょっとこう、踏ん張らなければ登れない。それを、踏ん張ろうとしない。それでは、何時までたってもうだつが上がらんですよ。いわゆる、しだごだです。なるほど、御神縁を頂いておるものは、一足でも無駄に左遷と仰るのですから、おかげは受けますけれども、そのおかげたるや、やはり、しだごだ的なおかげであり、信心が進むと言う事も無からなければ、徳を受けると言う事は勿論出来ません。ね。今日は、久留米の野口つぁんが、ああして、毎日お参りになります。娘さんが、この、壱岐にいっとります。この、末永さんが里が壱岐ですけれど、壱岐の教会からまた、ちょっと、一里か、二里ぐらい離れたところにいっとります。一週間ばっかり前に親子三人で、こちら帰ってきて、そのう、自動車の試験を受けたいというので帰ってきたと。そして、さあ、どういうわけか知らんけれども、佐賀で受けるというので、行ったんですけども、おー、不合格であった。それでまた、二度目に行った。
( 途中切れ )